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施設名 |
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屋島山上水族館 |
日本で唯一、山の上にある水族館。アシカショー、イルカショーもある。 |
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屋島寺 |
弘法太子空海の84番札所。 |
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屋島ドライブウェイ |
所要時間8分で屋島山頂へ。途中に、展望台がいくつもあり、展望抜群。 途中ミステリーゾーンがある。 |
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四国村 |
(四国民家博物館) 屋島の麓にある。昔の讃岐の人々の暮らしを再現。 |
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屋島山上商店街 |
屋島寺から獅子の霊巌へと向かう途中に、商店が建ち並ぶ。 |
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名所旧跡名 |
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獅子の霊巌 (ししのれいがん) |
瀬戸内海随一の展望。瀬戸内海、 ここからは |
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血の池 |
源平合戦の時、勝った源氏が血刀を洗ったためこの名がついた。 別名「瑠璃宝池」ともいい、屋島寺創建のとき、宝珠を本堂の前に埋め、そのまわりに池を掘ったのでその名がある。源平合戦の折、義経はじめ源氏軍が血刀を洗ったところ池はまっ赤に染まったといわれる。 |
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談古嶺 |
源平の古戦場「檀の浦」が一望できる。屋島三大展望のひとつ。源平の古戦場「檀の浦」が一望できる。屋島三大展望のひとつ。 屋島三大展望の一つ。ここからは源平の古戦場「檀ノ浦」が一望でき、那須与一の扇の的、義経の弓流し、平家軍船の泊地「船隠し」など、平家物語の屋島合戦の舞台が眼下に一望でき、色鮮やかな合戦絵巻を想いみるには絶好の地である。 |

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れいがん茶屋 望海荘
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屋島名物のいいだこおでん。300円。 一説には、ゆでると赤くなり、8本足が末広がりで縁起がよいとされた。瀬戸内のイイダコを武士が好んで食べたことから、その舞台である屋島の名物になったという。獅子の霊巌にある「れいがん茶屋」は眺めもよくおいしいと好評。 団体の昼食や休憩も予約しておけば、店の人が案内もしてくれる。TEL087−841−9636 |
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かわらなげ |
小さな素焼きの皿を投げる。展望台の売店にて販売。 合戦に勝った源氏の将兵が陣笠を山上から投げて勝どきをあげた古事にならい、小さな素焼きのカワラケを投げ飛距離を競うもので、屋島名物の一つ。遠投力ではなく風にうまく乗せるのがコツ。戦勝にちなみ、受験の合格祈願にも霊験があるとか。 |


屋島山上での観光の所要時間の目安(徒歩の場合)
・徒歩でのおおよその所要時間ですので人によって多少変わります。
・()の中の時間は、それぞれのスタート場所からのおおよその時間です。
u 獅子の霊巌展望台を回って大駐車場に戻るコース(約25分)
大駐車場(0分)→血の池(1分)→屋島寺(3分)→源平合戦供養碑(7分)
→獅子の霊巌展望台(15分)→屋島山上水族館(18分)→大駐車場(25分)
(史跡や水族館での見学時間は含みません)
u 談古嶺で檀の浦を展望して、大駐車場に戻るコース(約20分)
大駐車場(0分)→血の池(1分)→源平古戦場展望台(6分)→談古嶺(10分)→大駐車場(20分)
* ケーブルカーは、現在休止中!
なんといっても大駐車場から、屋島寺、獅子の霊巌展望台を回って一周して、大駐車場に帰ってくるコースがおすすめです。
途中に、たくさんおみやげ物屋さんや食事どころ、休憩所もあります。子供連れの方には水族館もあり楽しめます。
また、獅子の霊巌展望台からの瀬戸内海の眺めはすばらしく、夕景、夜景も見れて、夜はカップルの穴場にもなっています。
史跡や歴史に興味のある人は檀の浦を見渡せる談古嶺を回っていくコースもいいでしょう。

屋島の歴史コーナー☆
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時代 |
西暦 |
出来事 |
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大和時代 |
667年 |
屋島に朝鮮式山城が築かれる。 |
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奈良時代 |
754年 |
唐の高僧 鑑真が北嶺に屋島寺を建立。 |
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平安時代初期 |
810年 |
空海が、屋島寺を南嶺の現在の位置に移す。 |
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平安時代末期 |
1180年 |
源頼政が後白河法皇の皇子以仁王を奉じて平氏打倒の兵をあげる。 |
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1183年7月 |
ここを本拠地とする。 |
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1184年1月 |
平氏、摂津国まで進出。 |
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1184年2月 |
平氏、一の谷の合戦で源氏方に敗れ、再び屋島に退く。 |
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1185年 2月19日 |
屋島、檀ノ浦の合戦(19日〜21日)始まる。 源氏方の佐藤継信や平氏方の菊王丸らが戦死。 |
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20日 |
那須与一の扇の的、源義経の弓流しの事件がある。 |
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21日 |
平氏が西へと移動。 |
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3月24日 |
山口県長門 壇ノ浦の合戦で平氏は滅亡する。 |
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鎌倉時代 |
1192年 |
源頼朝が征夷大将軍に任命され鎌倉幕府が樹立される。 |
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江戸時代 |
1815年 |
屋島神社が岩清尾山麓より現在の地に移り、屋島東照宮と称する。 |
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昭和 |
1929年(昭和4年) |
屋島ケーブルが開通。 |
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1961年(昭和36年) |
屋島ドライブウェイが開通。 |
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1969年(昭和44年) |
屋島山上水族館ができる。 |
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1976年 |
四国村(四国民家博物館)が屋島の麓に開設される。 |
那須与一、扇の的を射る
那須与一という人は、源氏と平家の「屋島の戦い」にて、平
の武士です。
源平の戦いで有名なものとして、「屋島の戦い」と「壇ノ浦の戦い」があります。
那須与一は「屋島の戦い」の時に、「揺れる舟の上の扇の的を射よ」との平家の挑発に源氏の代表として、この難しい的を射ることに成功しました。
矢が的を射たことで、源氏の武運が勝ると見られ、平家が没落していきます。さらに、「壇ノ浦の戦い」で平家が決定的な滅亡を迎えます。その「大事な転換点」になったのが、平家物語の「那須与一の扇の矢」です。
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時は文治元年(1185)年2月18日、場所は現在の四国高松市屋島。
源氏と平家の戦いは、12世紀の話で800年以上前のことである。
ようやく、屋島も日が傾き、浦に島影も濃くおちた。
勝負は決せず、源平、互いに退く体にみえた。いや、源軍の勝ちであろう。
屋島の合戦を伝え聞いた阿波、讃岐の武者たちが、十五騎、二十騎と連れだって、源氏軍に馳せ参じた。
源氏は三百騎をこえた。平家は海に追い落とされ、根拠地を焼かれた。
しかし、平家は、それを認めたくなかった。安徳天皇と三種の神器をいただいているので、用心の上にも用心して、海上の安全な場所に移ったにすぎない。
負けおしみである。よし、されば、緒戦は負けとしておこう。
「だが、明日は、明後日こそは」
教能が三千騎をひきいて、帰来する。それをまって決戦をいどみ、源氏を粉砕しよう。終わりよければすべてよし、最後に笑う者が勝利者である。
「われら、負けてはおらぬぞと、源氏方に、わが軍の余裕をみせてやれるような企てはなきものか」
門脇宰相教盛が言った。
「そして、それは合戦場での余興じゃ」
平家の人々は、風流人が多かった。
「扇の的は、いかがでしょうか」
伊賀十郎兵衛家員は、ふと思いついて申しあげた。
船の上に柱をたて、扇を結びつけて、源氏の者に射させてみてはどうかというのである。
「それは面白い」
宗盛は、喜んだ。合戦は上手ではないが、こうした遊び事には、すばらしい理解を示す人である。
また、きわだった演出の才能も持っていた。
義経は、全軍引きあげを命じかけて、
「あれは」
と沖の方を指さした。
一艘の小舟が、平家の船団の中から漕ぎ出してきている。赤いものを舳ちかくにかかげている。
舟は、岸から矢頃のあたりにとどまり、横むきになった。
扇である。舟棚に竿をたて、その先端に紅の地に金箔の日の丸を押した扇をつけている。舟の上には、美しい女房が乗っていた。
十八、九ばかりの、白と青の襲(かさね)をきて、紅の袴をつけた、美女であった。
美女は、陸にむかってさしまねいた。
「いかにせよというのであろうか」
義経は、後藤実基にたずねた。
「あの扇を射てみよ、というのではございませんでしょうか」
と後藤実基は言った。
「ただ、御大将が、矢頃まですすまれて、かの傾城(けいせい、美女のこと)をご覧なさろうとすれば、御大将を射落とそうというのではありませんかな。しかし、それはそれとして、誰かに、射させるべきでありましょうな」
義経もうなずいた。
「誰か、いるか」
「上手は、いくらでもおりますが、なかでも、下野国の住人那須太郎資高(すけたか)の子、与一宗高(よいちむねたか)こそ、身体は小柄でございますが手利きでございます」
「まこと、手練の者か。名も耳にしたことはないのう」
「空とぶ鳥に賭けをいたし、三つに二つは、必ず射落とすほどの者でございます」
「よし、呼べ」
与一は、義経の前に召し出された。
二十歳ばかりの、小柄な平凡そうな男であった。だが、一見して、弓をひくために手が長いのではないかと思われた。
「宗高、あの扇のまんなかを射て、平家の者どもに見物させよ」
与一は、驚き、思わず、扇の舟をふりかえった。扇は、上下に左右に、さかんにゆれ動いていた。
「とてものことむつかしゅうございます」
与一は、ぼそぼそと言いながら、<あんなものを射よと言うのか>
と、それを考えついた平家の者に、強い腹だちを覚えた。
「射落とせるかどうか、わかりませぬ。もし射損じましたときには、君の御傷となりましょう。誰か、確実に射落とせる者に仰せつけください」
見物する者は面白かろう。が、これだけの観衆の中では、やる者は生命がけではないか。
「与一よ。今日まで、なんの功名もなしじゃ。親父どのに土産なしとはさびしいのう」
後藤実基が言った。
「しかし」
与一は、言いかけて、ぐっとつまった。言いにくいことをずばりと言う人だ。
「ぐずぐず申すな。鎌倉をたって西国へ向かう者どもは、義経の下知にそむくべからず。やれと言えばやれ。それがいやなら、これより帰れ」
義経は、声を荒げた。
与一は、首をすくめた。床几に腰をおろして義経の傲然と開いた足もとを見つめて、
<そうか、死ぬほかないのだな>
派手つ気も気負いもなく、思った。
「御諚とあらば、いたしてみましょう。あたるかあたらぬかは、わかりませんが」
与一は、やはりぼそぼそとした声で言うと、一礼して退った。
「なんという、図太いことを言う奴でござりましょうか」
実基は、あきれ顔で与一を見送って、義経をふりあおいだ。
「あれなら、やりとげましょう」
与一は、黒馬に乗って、弓をもち、海にむかった。
「頑張れよ」
「祈っておるぞ」
皆が、それぞれ声をかけた。が、与一は、扇だけをみて、応えようとはしなかった。といって気負いたっている風でもなく、またおじおそれている風にも見えなかった。この表情の乏しい青年は、晴の舞台にのぞむのに、故里の通いなれた那須野を行くように、無感動に見えた。
無感動に見えても、彼も人である。心中では、あらゆる思いが交錯していた。
扇の的は、ゆれにゆれている。鳥ならば、飛んで行く方向があった。扇は、千変万化の動きである。汀(みぎわ)で、沖を見、陸を見た。
平家の船は、押し並んでゆれ動いていた。陸では、味方の者たちが、くつわを並べて、与一に注視していた。
<おれの自害の見物人どもめが>
与一は、逃げだしたかった。が、逃げることはできなかった。ここで逃げて生命は助かっても、もう世間には顔を出せなくなる。それは、死に等しい。
どうせ死ぬなら、射てみてからのことである。
矢頃がすこし遠い。与一は、六間(約10.8m)ほど、海中へはいっていった。それでも扇と与一の間は、四十間(約72m)ばかりはあった。
扇を睨みつけ、後ろ手に、矢をさぐった。三、四本のこっている。矢の細いまるみ、すべすべと磨きぬかれた竹肌の感触が、指先に、酔わせるような感触をあたえた。
与一は、自分のこれまでの生涯、この感触一筋に生きてきたことを思った。与一は、射るべき的にむかって、身も心ものめりこんでいく自分を感じた。
与一は、中差を軽く掴んだ。つまり、普通の矢、征矢(そや)だ。それをすて、上差の矢に掴みなおし、取りだしたのは鏑矢(かぶらや)であった。
近くの汀に馬をたてていた武者たちの間から、悲鳴にも似たどよめきがおこった。
鏑矢は、鏑をつけている。鏑は、蕪である。蕪に似せた形のものを、中を空にして数個の孔をうがち、矢につける。射れば、笛のような音をたてる。開戦の矢合せなどのような儀礼的な射撃に使われる。余計な物をつけている鏑矢は、当然ながら征矢に比べれば的中率は格段におちる矢である。矢筈を弦にかけて、的をみた。
<的がゆれているのではない。おのれがゆれている>
与一は、一瞬、目をとじ、那須の温泉神社(ゆぜんじんじゃ)に祈った。目をひらいた。すると、風もすこし弱まり、扇のゆれもやんでいた。
無心に手が、腕が、動いた。十二束三伏の矢を、きりきりと引きしぼった。
浦は、緊迫感につつまれて、寂として声もなかった。
ひょうと放った。矢は、浦にひびく長鳴りをして飛び、扇の要ぎわを一寸ばかり残してひいふっと射切った。矢は、海へはいった。扇は、空たかく舞いあがった。扇は虚空に、真紅をひらめかせ、春風にひともみふたもみもまれて、海へおちた。 どうっと歓声があがった。
平家は、舟ばたを叩いて褒めたたえた。源氏は箙(えびら)をたたいてどよめいた。歓呼の声が浦にこだまするなか、扇は、夕日に輝く海に、ただよっていた。 <与一男前だね☆おわり>
「善や」
087-843-2995
営業時間 10:15〜17:00
Ø
お座敷有り お土産うどん有り
Ø 席 64席 P 15台

「わら屋」
087−843−3115
営業時間 (土)10:00〜19:00
Ø 高松から6キロほど離れた屋島にある。わらぶき屋根で有名。
Ø 席 310席 P 150台
「黒田屋」高松西インター店
087−864−7533
営業時間 (土)10:30〜05:00
Ø 席 107席 P 50台
Ø
お勧めは「生醤油うどん」薬味は入れ放題。
その上からしょうゆをかけて食べる。

「山田屋」
0120-04-6522
営業時間 10:00〜20:00 年中無休
Ø 日本庭園が見える座敷でうどんを頂くスタイル。ちょっとうどん価格も高め。

「本格手打 もり家」
087−879−8815
営業時間 (土)10:30〜20:00
(注:遠い!高松空港近く)
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香川とうどんの歴史
“麺”は、奈良時代(8世紀)に中国から渡来したといわれており、それを裏づけるように、当時の古文書に「索餅(さくべい)」「麦縄」「田束」など、
中国の麺をあらわす文字が記されています。
さらに、その源流をたどると、前漢時代の黄河中流域に位置する「西安」「太原」「洛陽」の三つの古都をむすぶ三角地帯に行き着きます。
ここで生まれた麺食文化は、中国から渡来したさまざまな大陸文化の一つとしてわが国に伝えられたとされていますが、
こうした麺食文化の伝来には、7世紀初頭にはじまった遣隋使・遣唐使が大きな役割を果たしたものと考えられます。
空海の生まれ故郷である香川県には「讃岐のうどんは弘法さんが唐から持ち帰った」という言い伝えがあります。
平安時代(804年)に遣唐使船に乗って大陸に渡った空海は、長安(現、西安)に滞在しますが、
長安の周辺は広大な小麦耕作地帯でした。
数百年前に生まれた麺食文化は、この地で大きく開花しました。
空海が密教を学んだ青龍寺をはじめとする寺々には、麺料理専門の僧がいたといわれており、
その技術を空海が持ち帰ったとすることは不自然ではありません。
唐からの麺の伝来は空海帰朝のおよそ百年前ですから、初の伝来者とは言えません。
でも、大衆の生活技術に深い関心を持っていた彼のことです。
何らかの麺作りの新しい智恵を持ち帰った可能性は否定できません。
唐の新技術「切り麺」は、空海がもたらしたのではないか、という状況証拠も存在します。
讃岐うどん空海伝来説の出所は、この辺にありそうです。
讃岐のうどんに関する最も古い資料は、金刀比羅宮の表書院に伝わる「金毘羅祭礼図」と呼ばれる元禄時代(約三百年前)
の絵屏風で、当時の
これらの店では、もろ肌脱ぎの職人が、それぞれに、店先で粉をこねたり、うどん生地を麺棒で延ばしたり、
包丁で切ったりしており、3軒とも当時のうどん屋の目じるしであった絵馬形の看板を軒先につるしています。
元禄時代といえば、江戸、京、大坂などにうどん屋が出現しはじめたころで、同じ時期に、琴平にもうどん屋があったということは、
当時から讃岐がうどんの先進国であったことを物語っています。
讃岐では、四季折々の行事や儀式などの際に、手打ちうどんが食べられており、四国霊場めぐりのお遍路さんのお接待にも、うどんがよく出されました。お接待とは、お遍路さんにお茶や食事、宿泊所などを提供する習慣で、讃岐の手打ちうどんは、全国から訪れたお遍路さんたちの口から口へと広まっていきました。
また、現在のように、讃岐うどんの名前が全国的に知られるようになったきっかけは、昭和20年代後半から30年代にかけて金比羅詣での讃岐観光が復活し、観光客の口コミで全国に広まったことや、昭和45年(1970)に大阪で開催された万国博覧会の会場で讃岐うどんが飛ぶように売れたこと、瀬戸大橋の開通以前に本州と四国をむすぶ海の幹線であった宇高連絡船のデッキで売られていた「うどん」が、旅人たちの人気を集めていたことなどにもあるようです。
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